2012年3月2日金曜日

T023874587318

47news
日本を創る
①原発と国家
第2部「『立地』の迷路」
vol.1
原子の火がともった
草創期の期待と高揚
http://www.47news.jp/47topics/tsukuru/article/post_18.html

 東京電力の最初の原子力発電所で、1967年9月に1号機が着工、1971年3月に営業試運転を開始した。写真左奥から右手前に向かって完成済みの1号機 建屋、1969年5月に着工して建設中の2号機、1970年10月着工の3号機=1971(昭和46)年5月5日整理(撮影月日不詳)、福島県双葉郡大熊 町(福島第一原子力発電所)
画像URL
http://img.47news.jp/47topics/tsukuru/images/mainImg20120201_1.jpg

福島第1原発事故は、「安全神話」の陰で住民の危険を棚上げにし、都会に電力を送り続ける構図を明るみに出した。国策だった巨大事業がもたらした惨事は今後の「都市と地方」の在り方に大きな影を落とす。「立地」の迷路をさまよったフクシマの足跡をたどる。
×   ×
「ただいま臨界に達しました」。1970年7月、東京電力の職員だった志賀秀朗(しが・しゅうろう)(79)=福島県大熊町前町長=は、真新しい 「福島原子力発電所」の事務棟で、構内に流れたアナウンスを誇らしい思いとともに聞いた。1号機の炉に"原子力の火"がともったのだ。
関西電力の美浜と運転開始の時期を競い合った、国策プロジェクト。高揚感で、社員たちのほおが紅潮する。「ばんざーい」の歓声、振る舞われる日本酒。志賀の胸に「これで地元が豊かになる」との期待が膨らんだ。
東電が原子力導入に本格的に取り組み始めたのは55年10月、社内調査委員会設置にさかのぼる。
後に"原子力村のドン"と呼ばれる元副社長の豊田正敏(とよた・まさとし)(87)は、11月に社長室に新設された原子力発電課の主任を命じられた。31歳だった。「まだ研究も初期段階。電力会社がやるのは時期尚早と思ったが、社命だったから全力だった」

平和利用

急ぐのには理由があった。東西冷戦下の53年12月、アイゼンハワー米大統領が国連総会で「原子力の平和利用」を唱え、核技術の民生転用が現実 化。55年8月にジュネーブであった第1回原子力平和利用国際会議では、ソ連が世界で初めて運転を開始した原発の詳細な報告書を公表し、各国に衝撃を与え ていた。
豊田たちは分担して海外論文を読み進め、専門用語を日本語に移し替える。「ウラン『濃縮』は本当は『富化』としたかった」。敗戦国の若者たちが巨大技術の移入のため、汗を流した。
日本でも54年、改進党の中曽根康弘らが初の原子力予算を国会に提案、成立。56年には原子力委員会が発足し、初代委員長に正力松太郎が就いた。電力会社と三菱、三井など旧財閥系の国内重電機メーカーは日本原子力産業会議を立ち上げた。
主導権を政府と民間のどちらが握るか。政界を巻き込む路線対立の末、60年1月に官民共同出資の日本原子力発電(原電)が茨城県東海村に初の商業炉建設を開始する。
「このころ米国から火力並み原価で発電できることが伝わり、電力各社も原子力をやるという流れになった」。豊田は原電に出向し、東電の同僚は用地選びのため各地を駆け回ることになった。

同郷人脈

福島県では地元政治家が活発に動いていた。57年に県知事に就任した佐藤善一郎(さとう・ぜんいちろう)は翌58年には、県内で原発立地が可能かどうかの検討をひそかに部下に命じていた。
佐藤は、60年に通産政務次官を務め、後に福島県知事となる木村守江(きむら・もりえ)と緊密に連絡を取った。伝記には「原子力といえば原爆と同じと考えられていたので調査は慎重を期し、政治生命にかかわる一大事業と目されていた」と記されている。
福島県梁川町(現伊達市)出身で東電会長にまで上り詰め、"東電の天皇"とも称された木川田一隆(きかわだ・かずたか)は常務だった52年ごろ、福島県議の突然の訪問を受けた。後に国政に転身し、建設族の実力者となる天野光晴(あまの・こうせい)だった。
天野は福島県庁建て替えの寄付を募り、電力会社を回っていた。「双葉町出身の天野と木川田と、同郷同士『通訳のいらない付き合い』が始まった」。天野の元秘書塩谷憲一(しおや・けんいち)(64)が明かす。
自伝によれば、天野は60年代初め「浜通り(地方)の電力開発で地域振興をする」との構想を抱く。原子力に意欲的な木川田とこんなやりとりを交わした。「オレの郷里はどうだ」「条件がとてもいい。頼む」(敬称略)(中井信晃)

0 件のコメント:

コメントを投稿