日本を創る
①原発と国家
第2部「『立地』の迷路」
vol.2
「電力」と蜜月始まる
誘致決定、沸く住民
http://www.47news.jp/47topics/tsukuru/article/post_20.html
「猪苗代の電気がないと山手線は全部止まる」。福島県南会津郡出身の民主党最高顧問渡部恒三(79)は学生のころ、福島の水力発電所が東京の基幹 交通網を支えていると教えられた。戦前から首都圏への電力供給基地だった福島。「俺んとこと双葉は貧しかった。戦争の後、南会津は只見川の電源開発、双葉 は原発で豊かになったんだな」
双葉郡の名前が原子力の歴史に登場するのは1960年。知事の佐藤善一郎が県議会で「後進地域である双葉郡の開発のため、『最も新しい産業』をこの地に誘致したい」と答弁。大熊、双葉町は61年、過疎地対策として県や東京電力に立地を陳情し、東電は用地取得を決めた。
原発の立地条件は、原子力委員会が決定。「原子炉立地審査指針」で①一定距離の範囲が非居住区域②非居住区域の外側は低人口地帯③敷地は人口密集地から一定距離だけ離れている―の3条件を列挙する。
特攻基地
東電が66年7月に国に提出した書類では、予定地の半径30キロ以内の人口密度は1平方キロメートル当たり97人。「周辺半径1キロ以内に人家は存在しない」非居住区域で、これ以上ない格好の場所だった。"過疎"ゆえに建設された原発は40年後に事故を起こし、この同心円から次々に住民たちが避難することになる。
選ばれた土地は第2次大戦中、特攻隊の訓練基地だった。大熊町出身の建設会社社長佐藤久夫(さとう・ひさお)(73)は、太陽光をまばゆく反射す る米軍戦闘機が連日、飛行場を攻撃する光景を覚えている。「熱い薬きょうが雨のように降り注いだ」。戦後、住民は太平洋の海水で天日式の製塩業を始めた。
佐藤の父もその一人。周辺の約100万平方メートルを買収した国土計画興業(現コクド)も製塩に乗り出す。「薪として使った阿武隈高地の木材が少なくなり、行き詰まった」と佐藤。製塩方式の発達もあり国土計画もやがて撤退した。
70代の元東電職員、西川茂(仮名)は戦後、両親とともに開拓民として関東地方から大熊町にきた。父母と陸稲、菜種油、大豆を約10年つくったが、収入にならなかった。町では男性の約3分の1が出稼ぎせざるを得ず、西川のような開拓民の大半も同様だった。
共存共栄へ
西川はあっせん業者に誘われ60年、五輪開催前の景気に沸く東京へ。首都高や、ヨット競技会場となった神奈川県・江の島のヨットハーバーの建設に 携わる。大熊町民はそれぞれの現場に10人ぐらいいた。「日当は約1200円。町の相場の4倍はあった」。西川の2人の妹も中学を卒業後、東京へ集団就職 した。東電は63年8月、大熊町の国鉄大野駅前に「福島調査所」の仮事務所を設置、建設に向けた足掛かりとした。仮宿舎に寝泊まりした約30人の社員は地質、気象、地震調査のほか、町に反対運動が起きる素地がないかどうかも調べていた。
仮事務所を提供したのは大熊町商工会長の蜂須賀礼子(59)の父。礼子は小学生のころ、社員に海やいわき市のレジャー施設「常磐ハワイアンセン ター」に連れて行ってもらった。「中学の入学祝いに万年筆を10本もらい、同級生に自慢した」。姉は東電に就職、社員と結婚する。町は東電との「共存共 栄」へ一歩を踏み出そうとしていた。(敬称略)(伊藤元修)
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