日本を創る
①原発と国家
第2部「『立地』の迷路」
vol.6
全国転々、郷里に愛着
運転支えた作業員
http://www.47news.jp/47topics/tsukuru/article/post_23.html
「立地」により地域社会に大きな変動をもたらした原発。その稼働を実際に支えたのは、高い放射線量下の危険な作業を担った労働者だった。定期検査のスケジュールに合わせ全国の原発を転々としながら、事故後の今も生まれ育った地元への愛着を捨てないでいる。
福島県楢葉町の原発作業員、今田和義(23)=仮名=は大震災発生時、定検中の第1原発4号機原子炉建屋2階で配管工事を終え、高さ約4メートルの足場で後片付けをしていた。突然襲った激しい揺れ。柱に必死にしがみつき、事務所まで逃げた。
翌3月12日朝から千葉や東京に避難。下旬には社長や従業員の家族ら約20人と石川県・志賀原発近くの能登半島の町へ。元請けから「人が足りない。来てくれ」と催促があったが、作業や補償の内容がはっきりしなかったので社長が断った。
父子で
今田は中学を卒業後、いわき市の土木会社に就職。東北各県のダム建設工事にかかわっていたが、公共工事の受注が減り、約4年前からは原発作業が中心になった。父(62)も約30年間、「全国すべての原発で働いてきた」と今田。仕事の話は全くしない。同じ道に進むと決めたとき、「次は原発だから」「ああ、おめもか。ほかに仕事もないし、しゃんべ(仕方ない)」と話したぐらいだ。
今田も原発を東海、浜岡、島根、福島第2と渡り歩いた。日当は1万円。8千円から始まり500円ずつ上がるのがうれしかった。会社は5次か6次下請けと思うが、正確には分からない。
初夏にはアユ釣りをした大好きな木戸川。よく泳いだ美しい海。一時帰宅は3月末に一度、果たしたきり。自宅の町営住宅からは作業服と携帯ゲーム機 だけ持ち出した。5月からはいわき市の姉の家に移り、停止中の東電広野火力発電所に通い、再稼働に向け作業用の足場づくりをしている。
「原発で働くことに迷いはない。社長にはお世話になっているし。ホウカン(放射線管理担当者)さんが線量を測ってくれるので、気にならないっすよ」と事もなげだ。
話が家族や故郷に及んだとき、あどけなさを残す顔がゆがんだ。父は東京の親戚宅に避難している。「家なし子になった。帰れないと考えたら、頭がおかしくなる」
怖いが...
前川雅己(54)=仮名=は20年以上原発で働く。南相馬市の工業高校を卒業後、地元のごみ焼却施設で働いていたところ、重機の運転の仕事を紹介された。48本のタイヤがついた大型車両で原子炉の圧力容器を志賀原発に運んだり、第1原発に燃料を搬入したりした。大震災当日、4号機タービン建屋地下で、作業員たちの監視員をしていた。事務所へ向かう際、津波を恐れたが、周囲の作業員たちが意外なほど冷静だったので、皆と同じように歩いて逃げた。
妻(38)や息子3人は県内の避難所に。泣かない子だった三男(7)がちょっとしたことですぐ泣き叫ぶようになった。
会社が借りたいわき市のアパートから広野火力に通う。「作業員は戦時中の特攻隊みたい。本音言ったら怖いけど、われわれみたいな下請け業者は一度断ると声がかからなくなる。声がかかれば行くしかないよね」
東京電力によると、第1原発の作業員は昨年7月現在で6778人。うち5691人が下請けの社員で、福島県出身は5174人だった。